ハートマン軍曹のブログ

資本論の学習に関連して

斎藤幸平の資本論解釈 (1)

 最近、資本論研究者として斎藤幸平の「人新世の資本論」が人気である。本来誰のものでもない外的自然を「コモン」と規定し、この「コモン」を自分の価値増殖のために破壊して顧みないのが資本主義の最大の問題だ、と斎藤は押し出してみせる。

 たしかに人間は自然の一部であり、外的自然に人間は規定されるとともに人間は外的自然に働きかけてそれをつくりかえることができる。地球温暖化に象徴されるように地球の自然が破壊されているということは、根本的には人間社会がおかしいからである。

その意味で今日の人間社会=資本主義社会の暗黒面の一部を明らかにしているとはいえる。だが、その資本主義を変える主体は労働者による協同組合であり、労働者の手によって生産を管理し経営する協同組合を拡大していくことだというのである。そんなことで資本主義の変革が可能なのであろうか?ここからさまざまの問題が生じる。

 そもそもマルクスはそんなことをいうために資本論を書いたのではない。「経済的社会構成を一つの自然史的過程ととらえる私の立場」(資本主義社会を人間社会発展過程の一つ=変革されるべきものという立場)にもとづいて、資本主義社会の経済法則を解明したのである。これを論理的にいうならば、資本主義社会を否定するためにその経済法則を肯定的にとらえる(否定のための肯定)にほかならない。

 この「否定」とは何を意味するか? マルクスは「ドイツ・イデオロギー」や「共産党宣言」において階級的に疎外された人間社会の最後の発展段階であり、完成であるととらえ、生産手段をもたない・資本家から搾取されている労働者階級による独裁(プロレタリアート独裁)を説いた。さらに進んで1870年のパリ・コミューンのたたかいの教訓からパリ・コミューンを「ついに発見された労働者による統治形態」ととらえ、「立法し同時に執行する」コミューンを主体として、現存している資本主義政府をそれと置き換えることを労働者による革命のあるべき形態であるとした。すなわち「労働者はできあいの国家をそのまま利用することはできない。それは置き換えられなければならない」(マルクス「フランスの内乱」。この敗北し何万人もの労働者がときのブルジョア反動政府によって虐殺されたパリ・コミューンの仇を討ったのが1917年のロシア革命である。このロシア革命の主体となったソビエトはコミューンと同義である。これはレーニンの「国家と革命」を参照されたい)。マルクス本人は現存ブルジョア国家を労働者の手によって打倒し、社会主義社会の建設をめざしているのは明白なのである。いいかえれば資本主義国家の枠内でそれを改良することを明確に否定しているのだ。その立場にたって資本主義社会の経済法則を解明したのが「資本論」なのである。

 かつての日本共産党は、資本論を「商品生産の発展の歴史」ととらえ、資本主義の「生成・発展・消滅の過程」を書き込んでいると読み込んでいた。これは「生産力と生産関係の照応矛盾によって歴史が発展する」という唯物史観の公式を資本論の叙述にあてはめて解釈するという誤謬である。なぜならば、読みすすめることによってその唯物史観の公式が明らかにされるという構成に資本論はなっているからである(資本論の最後の章は「諸階級」)。とはいえ唯物史観が背後になければマルクス資本論を書き得なかったのであり、また資本論を読むものにとっても唯物史観が念頭になければさまざまの歪んだ解釈が発生するのである。その典型が斎藤幸平であろうと私は思う。

 

※ここで紹介したが、レーニンの「国家と革命」を読むことを私はぜひすすめる。資本制国家の階級性・欺瞞性が一点の曇りもなく明らかにされているからである。